上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
《 深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている。 》 ニーチェ

今日は朝から暖かい雨が降っている。
外出するのはやめて、ドトールコーヒーを入れ、久しぶりにブログを更新することにした。
テーマは、最近読んだ野矢茂樹さんの『無限論の教室』について。
 
ぼくが大学で受けた中でもっとも不人気だった講義の話をしよう・・・

この本はこんな書き出しではじまっている。
ぼくとタカムラさんという名の女子学生、ちょっと変わったタジマ先生、この3人による対話というスタイルの無限論のお話し。
何となく、雰囲気が 『数学ガール』 にも似ていて、楽しく読めた。

だが、読んでいて合点がいかない箇所もあった。
僕なりにこの本の内容を咀嚼すれば、(僕の理解は数学的には厳密でないのだろうが。)

① 1,2,3,4,5…という自然数の全体。もちろん自然数は無限にある。任意に選んだ自然数よりも大きい自然数なんていくらでも示すことができるから。

② 2,3,5,7,11,13,17…という素数の全体。
素数とは、1と自身の数以外に約数を持たない数。素数も無限にある。
素数が無限にあることは、古代ギリシアの数学者、エラトステネスによって証明されている。

③ 有理数とπや√2や√3などの無理数を含めた実数の全体。実数も無限にある。

素数は自然数の一部だけれども、素数の全体と自然数の全体とではその大きさは等しい。
無限の一部をある条件のもとで取り出してもそれが無限ならば、取り出された無限は元の全体と等しくなる。無限では部分と全体は等しくなるのだ。
同様な例⇒自然数の全体と偶数の全体は大きさが等しい。

それならばすべての無限は大きさが等しいのだろうか?
カントールによれば、それは間違っていて無限にも大小があるそうだ。

上の3つの例では、①自然数と②素数は大きさは等しいが、③実数は、
①や②よりも無限の度合いが大きい。
どれも同じ無限だが、その度合いは異なっている。より小さい無限やより大きい無限があるのだ。
これは言葉のアヤとして言っているのではなく、カントールによって数学的に厳密に証明されている。たぶん、ピタゴラス定理や、それの一般三角形への拡張版である余弦定理などと同じくらいの厳密さで証明されている。(ブルーバックス新書、『集合とは何か』 等を参照。)

この本はこうした無限の特性、カントールの集合論、ゲーゲルの不完全性定理などを一通り解説しながら、可能無限の立場から、カントールたちの実無限派(現代数学の主流派)を痛烈に批判していく。

実無限と可能無限とは?
例えば、無理数の√2。
実無限の立場では、√2は、1.41421356…(以下循環しない数が無限に続く)という、1と2という数の間に存在する完結した数。
一方、可能無限の立場は、√2とは、2を開平していく過程の中で次々と生み出される値に他ならない。
1.41421356…という数があらかじめあるのではなく、2を開平して無限に少数展開していく作業に対して、√2という名前をつけたにすぎないのだ。

可能無限の立場では、自然数も、1,2,3,4,5…というように展開が果てしなく続くという可能性、その可能性が「無限」なのであって、実無限派が主張するように、自然数の全体が、あらかじめ完結した無限として存在するわけではない。

どうなんだろ?(汗)

僕の習った数学では、√2は1から2の直線の間にすでに完結して存在する数(実無限)のはずだ。
√2などの無理数が実無限でないのならば、直線は空隙だらけで連続体を形成しないだろう。(岩波文庫、デーデキントの『数とは何か―連続体と数の本質』 を参照。 )
それに、可能無限の立場をとるならば、極限を扱う無限級数など、数学で普通に使われる多くの公式が成立しなくなると思うのだが・・・。

結論。
この本は数学書として読めば欠陥も多いが、数学を哲学する本としてはおもしろいのだろう。
タジマ先生のおやじギャグやタカムラさんとのちょっとした会話なども可笑しくて、青春ノベルのように楽しく読めた。
僕が学生のときにこんな講義があったならば受講したいとも思った。

最後に無限に関する僕の個人的な思い出話を一つ書けば、たしか小学6年のときだったと思う、家にあった数学に関する雑学本をたまたま読んでいて、その中で以下の無限級数、

1+ 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32・・・

この無限級数の和は2になるが(この級数は2に収束する)、これがよく分からなかった。
当時の自分には、足していく数が次々と小さくなるとしても、プラスの値を無限に足していくのだから、その合計は当然無限大になるように思えたから。
いまだったら、公比 r が1より小さい場合の、初項a、公比 r の無限級数の和は a/(1-r) だから、これを計算して2という値は直ぐに出てくるのだが・・・・。

この本のような可能無限の立場では、こんな簡単な計算式すら成立しなくなるんじゃないの?


スポンサーサイト
久しぶりに、日本語の小説を読んだ。
小川洋子さんの、『博士の愛した数式』

以下は、小説の感想と小説にでてくる数式についての解説。

登場人物は、交通事故の後遺症で記憶が80分しかもたなくなった64才の元数学教授。ヒロインの家政婦からは博士と呼ばれている。それから、博士の義理の姉、博士を世話するためにやとわれた家政婦、博士にルートというあだなをつけられた10才になる家政婦の息子。
この4人によるあたたかな交流を描いている。
博士は、母親がシングルマザーで、人からあまり愛情を受けていないルートに無条件の愛をそそぐ。
やがて、博士とルートは深い友情で結ばれていく。

小説の半ばで、義理の姉と家政婦が言い争っている場面があった。そのとき、博士はそっと二人の前に一つの数式が書かれたメモを置いた。

e + 1 = 0 ⇒①

これは、『博士の愛した数式』 だった。
博士が愛し、すべての数学の中でもっとも美しいといわれるこの数式の意味を(our jewel and one of the most remarkable, almost astounding, formulas in all of mathematics.)、誰にもわかるように、ぼくなりに解説してみよう。
あまりに有名な数式なので、ぼくなんかよりずっとうまく解説しているサイトは、それこそネット上に無数にあるだろうけれど。(汗)

① の数式は、以下のオイラーの公式の姿を変えたものだ。

e = cosθ+i sinθ

本当は、オイラーの公式の証明から始めなければならないが、少しめんどうなので、これは wikipedia に丸投げで・・・。 ⇒オイラーの公式
wikipedia では、指数関数と三角関数のマクローリン展開を使って証明していますが、ぼくはガウス平面を使った複素関数による証明の方が、視覚的でわかりやすいから好きでした。(爆)

《小説と数式の解説》
e = cosθ+i sinθ (オイラーの公式)

一般には角度は度(たとえば、45°とか90°とか)を使って表現するが、数学では角度は、πで表現される。(半径1の円をとって、半径と円周の比で角度を表す。2π=360°)
θの値に、(π=180°)を代入すると、三角関数の特性から、sin波とcos波の値は、それぞれ、0、-1になる。
したがって ⇒ e = cosθ+i sinθ ⇒ e = -1

上の式を変形すれば、① の数式、e + 1 = 0  が得られる。

eは、自然対数の底で、その近似値は、2.718281828…。(e は無理数かつ超越数。)
e は対数関数を微分する過程で発見された数で、π(円周率)が視覚的でわかりやすいのに比べると、一般に馴染みがないかもしれない。だけど、πと並んで、数学ではもっとも重要な定数の一つ。
e は微分しても積分してもその値が変わらないという不思議な特質を持っているから、微積分では不可欠な数である。 ⇒自然対数とは何か
もちろん、πは円周率で、その近似値は、3.14159265359…。(πも、無理数かつ超越数。)
i は虚数(imaginary number)の基本単位で、i=√-1。 i を二乗すると、-1になる。

この数式では、e (自然対数の底)を i(虚数)と π(円周率)でべき乗してから、その値に自然数の1(最初の数)を加えると、0(ゼロ)に等しくなる。

ぼくなりにこの意味を解釈すれば、長年、人類に忌み嫌われていた虚数(imaginary number)という数を触媒に使うと、幾何学的な三角関数は、指数関数という解析的なものに深くむすびつく。

小説の中で、博士は、虚数(imaginary number)について、次のように語っていた。
「(虚数は)とても思慮深い数字だからね、目につく所には姿を現さないけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」

博士は、オイラーの公式のように、目にみえないところで、みんながお互いに深くむすばれていると言いたかったのだろう。

最初は、高校中退(a high school dropout)の家政婦には、オイラーの公式の意味が理解できなかった。
家政婦は、図書館に通って勉強してその意味を理解しようとする。
博士が亡くなった後、家政婦は、オイラーの公式が書かれたメモを見ながら、次のように回想する・・・。

「今振り返っても、博士が幼い者に向けた愛情の純粋さには、言葉を失う。それはオイラーの公式が不変であるのと同じくらい、永遠の真実である。」
「折りにふれ、私はメモを取り出して見つめる。眠れない夜に、一人きりの夕方に、懐かしい人たちを思い出して涙ぐむ時に。そこに書かれた偉大な一行の前に頭を垂れる。」

他にも、素数や、完全数や、友愛数など、さまざまな数の話が出てくるが、博士の数に対する愛情がとても純粋で素晴らしかった。

ぼくなんか、自然数も無理数も虚数も、たんに便利だから使っているだけで、それらの数への思い入れなど何もなかったのだが・・・。(汗)

以上、小説の感想というよりも、数学の解説みたいになってしまったが、もちろん、この小説は数学を無視しても十分楽しめると思う。
作者の小川洋子さんが、文系の人。
文章も、博士が愛した数式のように、瑞々しい。
決してハッピーエンドとはいえないが、読後感は、なんとなくあたたかい気持ちにさせられる小説でもあった。

ぼくも、博士も、決して人生は望むようにはいかないが、「ピュタゴラスの定理のように、あるいはオイラーの公式のように、毅然としていればいいのだ。」



オイラーの公式についてもっと詳しく知りたい人は、以下の、吉田武の 『オイラーの贈物-人類の至宝 e = -1 を学ぶ 』 という解説書がおすすめです。
これは、文句なしの名著。
知(intelligence)は切り売りしたり、安売りしたりするものではないという著者の信念のもとに書かれた、500ページを超える大作。
長らく絶版になっていたが、読者からの強い要望で再版された。かなり売れているそうだ。
日本の理数教育も捨てたもんじゃないと思った。


今日は、あまりに暑く、出かける気力がなかった。
時間が空いたので、以前、買っていた、ブルーバックスシリーズの 『高校数学でわかるマックスウェル方程式』 という本を読んでみた。



これは、文句なしの良書。
著者の語り口がすばらしく、読んでいてとても楽しかった。
理数系の本で、『高校レベルの数学でわかる』 といううたい文句はたいていは嘘っぱちだが、この本はタイトルに偽りはなかった。
難しい数式は出てこないので、最低限の微積分の知識があれば理解可能だ。(高校数学だけでという制約のためだろうか、ベクトル解析を使った説明は、付録で簡単に触れられただけだった。)

第1部では、電気の発見から電磁気学の成立までの歴史がおもしろく語られていた。
第2部では、高校の物理で学ぶ電気公式(クーロンの法則、アンペールの法則、ファラデェーの電磁誘導など)が、マックスウェルの4つの方程式によって、いかに綜合されていくのかが、難しい数式を使わずにわかりやすく説明されていた。
第3部では、科学について、欧米で博士号を持つことの意義、言論の自由などに関して、著者の見解が忌憚なく語られていた。(著者は早稲田の理工学部教授だが、小保方さんの博士論文に剽窃があったにもかかわらず、小保方さんの博士号をはく奪しないという大学側の決定を、どう思っているのだろうか?)

この本は、高校の物理から、大学で学ぶ電磁気学への橋渡しとしてピッタリだと思った。
自分が大学生のときにこの本があったならば、大学の電磁気学の授業にももっとスムーズに入れただろうに。

同じ著者による、『高校数学でわかるフーリエ変換』、『高校数学でわかるシュレディンガー方程式』 なども読みたくなった。
さすがに、量子力学の骨幹たる 『シュレディンガー方程式』 を、高校数学だけで説明するのは、絶対に不可能だと思うのだが・・・・。(爆)

ようやく、梅雨が明けた。
summer3
先日、アベノの喜久屋書店に寄ったら、「数理を楽しむ」という特設コーナーがあって、そこに数学関連の本が展示されていた。
数学関連の本が特設コーナーでこんな風に紹介されているのは珍しくて、なんとなくうれしかった。

そのなかに、E.T.Bellの「数学をつくった人びと」もあった。

この本は、大学のときに読んだけれどとても面白かった。
学校で習う数学を、それを生み出した数学者と時代背景を通して楽しく解説してくれていた。


数学1


英語と数学はとくに重要な科目のはずだし、ゆとり教育なんかやめて、国や教育機関もこの二つにもっと力を入れて欲しい。
いまやLingua Francaになった英語は、これから世に出ていく人には必要なパスポートだろう。
数学も科学やコンピュータの共通言語だし、これからのも必修科目だと思う。
技術立国をめざすのならば。

ガリレオの言葉を引用すれば、
"We look into mysteries of nature through the language of mathematics."
我々は、自然の神秘を数学という言語を通して探究する。

ガリレオが、数学を言語の一種だと言っているように、この二つは学ぶうえでも共通点が多い。

英語も数学も、いままで学んだ日本語とまったく異なるため、はじめは戸惑うかもしれないけれど、ほとんどは慣れの問題にすぎない。
また、英語と数学には固有の文法や世界観(view of the world)があって、これまでの常識で処理しようとすると失敗する。

たとえば、英語では、日本語を通して英語を理解しようとすると失敗する。
英語があるレベルにまで達すると、日本語から離れて、英語を英語のままで処理するという訓練が絶対に必要になってくる。

いわゆる、「英語脳」をつくることが大事なのだと思う。

これに少し関連しているエントリでは、
⇒英和辞典の弊害と英英辞典の必要性について

数学でも、「数学脳」をつくることが大事なのだと思う。
「数学をつくった人びと」は、歴史上の数学者たちの格闘を通して、この「数学脳」のつくり方みたいなものを教えてくれている。

この本の最後に紹介されていた数学者が、カントール。

彼は、「集合」という概念を数学に持ち込んだ。
この「集合」は、やがては、すべての数学の基礎になっていく。
また、カントールは、それまでタブーとされていた、「無限」を数学に持ち込んだことでも有名。

カントールが言った有名な言葉。

「数学の本質は、その自由の中にある。」

こういうことをストレートに言える、カントールはカッコいいと思う。
だけど、このカントールの自由な精神は、一般に受け入れられることがなかった。彼は学会からも無視されて、ついには精神を病んでしまい、精神病院の一室で一生を終えることになる。

その業績が評価さるのは、ずっと後のことだった。

カントールが証明した、驚がく的事実の数々。

線分を点が隙間なくつらなったもの(無限集合)としてとらえるときに、長くても短くても、そこに含まれている点の数は同じである。
1センチの線分であっても1メートルの線分であっても、点の数においてはまったく違いがないのだ。
こうした考えは、最高に自由な精神の発想であり、点や線分がどうなっているか、さらには、数や無限というものがどうなっているのかをことんまで考え抜いたからこそ出てきたものだろう。

(点とは幅のないものであって、それを無限に集めたからといって、線分になるわけではない?
0 × ∞ = 0 であるように。
こうした反論が起きるのは当然ですが、ここではおいときます。)

この考えでは、どんな長さの線分でも、その点の数は同じに思えるかもしれない。(無限大)
⇒これは、正しい。

さらには、無限の集まりであれば、そこに含まれる要素はどれでも同じ数に思えるかもしれない。(同じ無限大だから。)
⇒これは、間違っていた。

これをべつの言葉に言い換えると、自然数全体の無限よりも、任意の線分(無理数を含んだ実数体)の方が数が大きかった。
同じ無限でも、その大きさには違いがあったのだ。(この表現は数学的には厳密ではないけれども。)

このことは、カントールによって、数学的に厳密に証明された。

この証明は、ここでは書かない。
これを書くと長くなるし、ブログのアクセス数も下がるだろうから。
もちろん、点を無限に集めたらといって、線分(長さ)になるわけではないという反論もあるだろうから、興味のある方はネットや関連書籍を参照してください。
集合論などで検索すれば、詳しく解説されているサイトがあるはず。

数学の根源が、数を扱うという行為にあるのなら、1、2、3・・・などの個々の数だけではなく、数の全体などという「実無限」を数学に持ち込んだカントールは、マジですごいと思う。

どんなに無視されていても、自分の研究の価値は歴史が正しく評価してくれる。いわば、学者の最後のよりどころである、こうした挟持すらカントールにはゆるされなかった。
世間から見捨てられ、最後には、自分の一生をささげた研究の価値を疑いながら、不安の中、カントールは精神病院で亡くなってしまう。。。

「数学をつくった人びと」では、カントール以外にも、ニュートンや、20歳で夭折した天才ガロアや、数学の王様と呼ばれたガウス、四元数を考案したハミルトンなど、人類の知のスーパースターのオン・パレード。

英語を学ばれている方は、是非、原著の"The Men of Mathematics"に挑戦してみてください。
ベルの英語は、出版された時期が古いこともあって(1936年)、こった言いまわしが多く、少し難しく感じるかもしれません。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
テーマ:数学
ジャンル:学問・文化・芸術
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。